「何を感じるのか? を試される私達 〜ゼレンスキー大統領オンライン演説〜」
「ありがとうございます」
昨夕のゼレンスキー大統領の演説の締めに使われた言葉。日本語で感謝の意を表した。
いろんな論評が各ニュース報道で語られている。
何を意味しているのか、に焦点は当たりがちではあるが そこだけでもない。
貴方が、私が 何を感じたか。 それこそが一番大事なとこ。じゃない?
小説でも、映画でも一緒。同じモノを見ても 感じるコト、印象的なシーンは各人様々。
勿論その解釈も変わる。
画一的なモノではない。
ただ国会議員の方々からしたら、何を彼が語るんだろう。っていうある種の怖さ、は存在したんだろうな、と思う。
何かを語り、そして求め、それが日本国内において世論を巻き起こした時に、日本として対応が難しくなる展開を危惧した‘はず’
それが 怖さ
ホッとしたはず。多分だが。
ゼレンスキー大統領の凄さ、というのは相手が出来ること、を理解しているということなんだな この状況下においても。が私が持った印象。
ちゃんと アジアのリーダーなんて持ち上げられてるし(笑)
日本人が持つ歴史 サリンとか、津波とか、原発 のキーワードを使って私達がイメージしやすい事柄を選んでいる。
そこに共感、そして共有を ということなんだろう。
何か、しなくちゃ でも何が出来るんだろう。
昨今の出来事 のキーワードは、これかな。
先日の電力ひっ迫の節電要請にしても、コロナ禍を見ても ウクライナ侵攻にしても共通しているのは 「自分に出来ることは何だろう?」 ってことじゃないか、と感じてます ^^
誰もが思いそうなこと ってのが私一人がやっても変わらなくない?なんだが 実はそうでもない。
確かに、私一人がやっても変わらない「かも」しれない。が、一人一人がやらなければ 「絶対に❨多分❩」変わらない、ってのもある。
それは、選挙でも、レジ袋なんかでも一緒。
例えば 節電。
小さな子どもさんがいる家庭で 寒さに耐えながら頑張るモノでもないと思うし 一人暮らしの高齢者が、とか 病気を持っている方に無理を強いて ってことではないはず。
あくまでも 自分が、やれるコトをやれる範囲でやる。小さなコト、であっても。あったとしても。
そういうことなんだ、と思う。
ここだって一緒。こんなコトを書いても 変わらないよね、ってのは一つの意見としてはある。否定は しない。
にしても 誰かの意識が変わる「かも」しれない。それでかまわない ^^
全て流れているモノは一緒。
自分が想うコトを、感じてるコトを発信している‘だけ’
強制するつもりなんてのは毛頭ないし、出来るものでもない。
なにかに共感してもらえたら、何かを感じてもらえたら、だけ。
この先にあるもの、来るものを想像したら より繋がり、っていうのが大事なものになりそうな予感。それは国際的にも、それは個人間にも。
そこに必要なのは 人としての在り方。
誰かを思いやれること、とか感謝、敬意といった根本的な部分。試されるのは そこ。
それ無くして繋がりは広がらないし、共感は得られない。
それは人としての根幹 それは自由主義社会であろうとなかろうと変わらないモノ、だと思う。
何を感じて、何をやるのか、できるのか
考えることは必要だけど 小さなところからでも動かなきゃ何も変わらない、変えられない。これも一つの真理。
さて ・・・
また ^^
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