「古畑任三郎逝く、というニュースに思うこと」
亡くなられたのか〜。
いきなり飛び込んできたのは田村正和さんの訃報。
青春時代の思い出の中に彼は間違いなく存在する。
そのクールなイメージと独特の語り口を併せて。
普段取り立てて自分の年齢を感じる機会なんてのは少ないと思う。
フト立ち上がる瞬間にヨイショなんてかけ声をかけてる自分に驚いたり まだできると信じてたことがもう全然だったり どこか具合がちょっと悪いとあっヤバいかも なんてのは実は年齢に敏感になってる証拠。自覚は無いかもだが。
が それと同じで自分の青春時代とかに聞いてた歌手さんが、とか俳優さんが亡くなられたニュースを見る瞬間に そこに自分の現在地を見る。そして思い知らされる自分の現在地。
そして、それはその時代の自分に帰ることにつながっていく。
ニュースで流されるその在りし日の姿に重ねられるあの時の自分。
時にそれは苦くて 時にそれは甘酸っぱい。
何にせよ遠い記憶である。
どちらにせよ 当時の鮮烈さはなくてどこかオブラートに包まれている。
人が持つ特性によって辛く悲しい記憶は薄れていき 楽しかったことはより醸造されていく。
上手くできてるよな、が実感。
他方思うことは残された時間。
いつ産まれるか、は予測できるが、いつ死が訪れるのか、は予測し難いことだし 知りたいわけではない。
漠然と捉えているだけ。
不思議なもので少なくなってくるとその時間に対する感覚は変わってくるし 惜しくなる。
怖さ、は私には無い。
それは父の死であったり 母の死であったりが私に影響を与えているんだと感じている。
何かの機会で書くかもしれないし 書かないのかもしれない。それはわからない。
有り余る(というかその時にはその感覚さえ存在していない)時間の中にいる時には考えなかった時間の観念に囚われることになる。
その時間に意味を持たせようとする。
その想いの出口は人によって様々な形をとる。
何かを遺したいと考えるのか、何かを悟りたい、と考えるのか、何かを伝えたい、と考えるのか。その方の状況とか考え方によって色んな形となって表れるんだろうと思う。
私は、というなら 何かを伝えたい、かな。
今の年齢だから語れることはあるし 無駄な? ちょっと普通じゃない? 経験も持っている。
ブラス わけのわからない爺でもないつもり(笑)
どう伝えるのか、の問題はあるにしても まぁそこは私ができることを、であり 私なりに、の中での精一杯を持って、にならざるを得ない。
まぁそんなもん。
だが 時間と共に洗練されていくものはあるし 時間の経過の中で熟成されていくものもあるんだろうという何となく漠然としたものはある。
それは田村正和さんが年齢を重ねてより魅力的な存在になったように。
嫌だったらしいコメディー役、だがそこを求めた世間。
古畑任三郎は良かったよな〜。
もうあのなんとも言えない語り口は聞けないのか〜、がどこか寂しい。
ミステリアスなままに、最後まで田村正和という役を演じきったかにも見えるジャイアンツファンだった田村正和さん。
ご冥福を心からお祈りします。
合掌
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