「過渡期? なのかな~孤独との同居~」
ごめんなさい。
ん?何? 前回挙げた投稿だが続報が出てくるに私が想像してた背景からは違ってるやん、がわかった。
そこに踏み込めない「壁」があると考えてたんだが どうも踏み込めない、ではなくて 「踏み込まない何か」だったようである。
余計にキツくない これ。
救えるチャンスは間違いなくあった。
シグナルは出ていた、はず。痩せ衰えてたんだから。
が 最後まで踏み込んだ人はいなかった、ということ。
コミュニティである小学校、幼稚園、居住エリアも連絡を受けた児相も救えなかった、ということがある意味今の社会の縮図なのかもしれない。
昔が良かった、なんてのとはちょっと違う。
が 少なくともコミュニティの中で繋がっていたような気がする。
時に鬱陶しいぐらいに。
時代は変わりつつある。いや 変わった、かな。
私が小さい頃なんてのは爺ちゃん、婆ちゃんは普通に一緒に住んでたし 隣の子供らは意味もなく遊びに来てた。
が いつの頃か核家族化なんて言われるようになって 親子別世帯は普通になり 親は子供の世話にはならないように それを重荷?と捉え 自分たちは自分たちで、と考えるようになった。
それが悪いことだとは思わない。
私にしても子供夫婦と一緒に住みたいか、と聞かれたら遠慮しちゃうだろうから。
が その流れは 孤独、というのに密接に繋がっていく。
それは親世代だけではなくて自立した子供たちにも言えること。
一人の方が楽、はあるにしても真の意味で孤独な人、は少ないだろうし どこかで誰か、を求めているんじゃないか、と思う。
人はそんなには強くはないから。そうありたいとは思っても。
話の筋が変わってきてる?(笑) もどそう。
この流れは、変わりつつある社会はどこに向かうんだろう、という不安感。
旧きコミュニティは壊れつつある。なら それに変わるものは?
過渡期の時代とはいえ 最終的な目標であり 朧気ながらもこういう形になるのかな、というのが見えてくるものだが今の社会をみる限り 私にはよくわからない。見えない、が正しい日本語?
各個人の中だけ、で完結していくもんなのか?
難しくない、それって? だし 寂しくない、それ?
と孤独爺が小さく呟いてみる(笑)
また
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