「また消えた小さな命」
繰り返される悲劇。
五歳の男の子の小さな声はまた誰にも届かなかった。
取り上げられるニュース報道。
解説される経過、そしてその背景。
責められるそこに至るまでの対応。
確かにそのチャンスは何度かあったはず。
その内の一回でも「誰かが」きつく踏み込めれた、としたら この小さな命は救われたんじゃないか、と感じる。
会見を見ていて感じることは「その時点での対応に問題は無かった」的なニュアンス。
そりゃ変わんないわな。 それが受ける印象。
対応が難しいのはわかる。
ことが家庭というプライベートのど真ん中にある。
他人がおいそれとは入って行きづらい領域。
絶対的な力を持たない児相のスタッフができる限界を見せつけられている。
だが 力を持たない子供にとって最後の砦であるべき組織が、いや担当者達がそのスタンスをとるとするなら、しかとれないとしたら結果は変えられない。変わらない。
ニュースは風化していき 亡くなった子供は忘れ去られていく。
そして繰り返される歴史。
名前と場所、背景が変わるだけ。
違うんじゃない?
建前としては存在する組織、だが実態は命の危険が見てとれても入って行けない組織?踏み込めない組織?
必要なのか? 問われるその存在意義。
なら そこで出てくるのは悲しい言い訳になる、必然的に。
孤独担当大臣なんてのも新設されたが組織としてどう機能するんだろう、が私には見えない。
社会的な背景の中で作ってはみたが、的な感じ?
共通するキーワードは「寄り添う」なんだろう、と思う。
どう寄り添おう?に付いてくる どこまで立ち入るんですか?という壁。
やっぱり簡単ではない、難しいテーマである。
そこにあるのは?
個人のプライベートな領域。
人に依って変わる意識。
ならば テクノロジーを駆使して?
だが どんなにテクノロジーが進歩しようが最終的なものは変わらない。
「人は人によってしか救われない」
AIが簡単に分析できるものではないし 寄り添ってくれるはずもない。
必要なのは組織の力=法の手助け。 そこにもう一歩踏み込むことができるちゃんとした法的な裏付け。
そしてもっと重要なことはその弾力的な運用なんだろうと思う。
スタッフの資質、能力がやっぱ問われるし その数っていうのも重要なファクターになる。
公的な機関 今のコロナ禍で浮かび上がった現実の一つに保健所のスタッフ不足、があるように「社会の在り方」に対しての共有認識を社会全体がアップデートする必要ってのはあるんじゃない?
となると 大事なのはキッカケ、そしてタイミング。
社会がざわついている「今」こそ真剣な議論ができるチャンスだと思う。
やりなよ、国会で。 ちょうど今開いてるし。
今 この瞬間にも危ない命はきっとある、見えてないところで。
秘かに行われているであろうDVだって・・・
聞こえない声をきけるように。誰か、は貴方の側にいるんだよ、をわかってもらう為に。
じゃない?
また (-_- )
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