コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

「あれから75年~原爆投下~」

1945年8月6日午前8時15分 


広島市に人類史上初めて都市に使用された原子爆弾 その名は「リトルボーイ」


あれから75年の月日が流れている。


私の父は学徒動員で当時広島市にいた。

たまたま父はその1日前に広島市から離れていたので被爆から難を逃れることができたがその日の昼過ぎには指令が下って急遽広島市に帰った、と。


父とそんな話しをしたな、という記憶がよみがえる。

そんなに多く人生に関する話しを父とした記憶は私の中にはないが、だからこそ余計に覚えているのかもしれない。


急遽帰った広島市 そこに見た風景はまさに地獄図だった、と語っていた。

瓦礫の山 そして焼けただれている身体。

異様な臭い。


当時は第二次世界対戦の最中 勿論爆弾が落ちてくる、というのは予期していたこと、だがその見る光景は想定をはるかに越えたもの、見るに異様なものだった、と。


何かが違う、その違和感 そしてその恐怖感は その場を逃げ出したい、という 何をさておいても だった、まだよくわからない子供心にも、と。


そんな中 瓦礫の下にいる息も絶え絶えの人達 その選別が始まった。

まだ息をしている人 話ができる人 様々な負傷をしている人達 一様に「水をくれ~」「水を~」という声がそこここから聞こえてくる。


上官からの指示で 安易に水を与えてはいけない、とのきつい指示があった。

水を与えていいのは 「助からない人達」だけであった。


父は その最後に与える水をコップにいれる、そして口元に捧げる。

返されるありがとう の言葉に何も言えなかった。何の言葉も浮かばなかった、と語っていた。


その悲惨さは 言葉にできるものではない。

今ある文献を持ってしても 想像でしかない。

「その場にいた人達だけ」が語れるものだ、と思う。


だがどんな言葉を持ってしても そのすべてが語れるものではない、とも思う。


この原子爆弾を使用したアメリカの見解は


「戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるために必要だった」


というのが主流を占めている。

が 第二次世界対戦末期 日本は既に疲弊していて戦争を続けるだけの物資は既に底を尽きかけていた。

家庭にある鍋、釜は勿論 お寺の鐘までもが武器、弾薬に変わっていたのだから。

本土決戦に備えて 用意されたのは竹槍だった。


果たして その言葉に正当性はあるのだろうか。


あれから75年が過ぎた。

世界は未だ 「核抑止力による平和」 ここにいる。


3年前国連で採択された「核兵器禁止条約」は現在の批准国40ヵ国 発効に必要な50ヵ国にはまだ至っていない。


日本は アメリカの核の傘下にいる立場からか批准国入りの署名にはなっていない。

世界で唯一の被爆国である日本が。


ニュージーランドのアーダーン首相が語られている。


「核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者に報いる唯一のこと」と。

 

同盟国だから、という大人の事情?それはわからなくもないが ならば、日本だからこそできること、日本だから発信できること、はあるんじゃないかと思うし やらなければならないこと、の一つだと感じる。


人としてある避けて通っちゃいけない大切なこと、と同じように国として避けて通っちゃいけない大切なこと なんじゃないかな、と式典を見てふと感じた、それと同時に寂しそうに語っていた亡き父が思い出された。


やるかな リモート法要。ちょっと違う感があるんだが▪▪▪


また ^^