コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

「神の名のもとに・・・」

私のブログは削除されるかも知れない。


私のブロ友さんからきたメッセージ。


内容、展開は私も知っている。

過激 と言えばいいのか 個人をある意味糾弾するブログ投稿。


ブロ友さんは 私にも迷惑がかかるかもしれない、とも言ってくれている。


一言でいうなら 私のことなど気にする必要なぞどこにもない。

何故ならブロ友さんが何に対して 怒りを覚えているのかを知っているし 私にも理解出来るから、である。


訳がわからないなら 止めにも入るし 真意を正す行動を起こす。

当たり前の話しである。


私のようなタイプのブログ(誰かに何かのメッセージを発信する、かな)は 自分の書くことに対して 責任を持つことで 初めて 書くことに重みを持たせることが出来る、と私は信じている。


例えば 私の投稿に対して 誰かがメッセージを出してくれたとします。

それは時に 難しいものであったり 非難をされるようなものもある。

それは覚悟して書いている。

覚悟して書かなきゃいけないとも思っています。


その覚悟が無いのなら 書くな、と。

違う道を行けばいいんじゃない?

日常を書いても良い、愚痴をグダグダ書いてもいいと思う。


大人でなること、だったかな? 私の以前に挙げた投稿 すいません、もしタイトル間違ってたらごめんなさい。

とりあえず そういう感じのです。

責任を背負うこと。と書いた記憶があります。


私のブロ友さんは未だ若い。若干21才(だよね、確か)です。

まだまだ粗削りな部分は勿論ある。

但し 独特の感性を私は持っていると認めています。

時として攻撃性を発揮します(笑)

が 時として 驚くほど素直な一面を持ちます。


こういう個性を持つ人、感性を持つ人に対して 私達大人がすべきことは何か?

と するなら それは生きる指針を与えることだと私は思います。


しかも私のブロ友さんが 対峙しているのは 教会関係の方です。


噛みついた件は この教会関係の挙げた投稿の一文。

問題は解決するためにある。というもの。

私もそうだと納得する。


これに対して 私のブロ友さんはコメントを入れた。

このコメントへの返信を含めて この教会関係の方はそれを削除した、というもの。


私からすると 何故?

がここに大きく横たわる。


貴方にとって 問題は解決出来る。 は 逃げることなんですか? 削除して無かったことにすることなんですか? だ。


違うんじゃね。


としか私は感じない。


神という言葉。

私もたまに 使わせて頂いています。

私の内にいるものとして それを言葉にするのに 表す為に、です。


神の名のもとに 信念を持ってブログを書かれているのなら 貴方が逃げる、ということは 神が逃げることになりませんか。と私は問いたいし 問題が出てきた時は 私は 新たな「気づき」のチャンスだと思っています。


それは相手の年齢では無い、地位でもないし 肩書き、実績でも無い。

それこそが 宗教的な言葉を借りるなら 神の啓示 だと私は思う。

神が与えた試練 という言葉でもいい。


新たな経験を する為に これが訪れた、と考えるのが宗教家だと私は思います。


私は 当初からこのブロ友さんと 色んな討論をしてきました。

時には いや~難し過ぎない、この話しなんてのも多々あります。

それは 私の以前のブログの中に コメント欄に残っています。

私なりの解説を、意見を書いて う~ん どうなんだろう、これは。

なんてのもかなりあります。


でも書いたものは残さなきゃ、と自分の中にはあります。

それが例え恥ずかしいものだとしても、です。


自分の中で決めていることがあって もし私が私に対して頂いたメッセージにいや、これはムリと感じたら 私はブログの形態を変えようと思っています。


私の挙げる投稿がゴミにしかならないから。


人の心には届かないだろうし、ましてや エラソーに語ってんじゃね~よ。

と私なら思うから。


だから私は 私のブロ友の出すメッセージを肯定します。

例え そのやり方が 攻撃的と捉えられるものだとしても、です。


理由は 書きました。

だから私のブログが削除されたとしても なんてことは ない。


次はどこで書くかな~ ぐらいかな(笑)

どこに行こうが私は 所詮私でしかないんだから。なんちゃって。


また^^