「いつの間にか傍にいる それが今風な神様なのかも」^^
あなたは神を信じますか?
と正面から聞かれたら・・・引いちゃうかな、私は ^^
っていうのが多分普通。わかる。
私は、というと外国人との結婚、子供の出産を控えていたから その前に洗礼を受けたのでれっきと、してはいないけどキリスト教徒である。
因みに実家は真言宗の小倅だが(笑)
と言っても熱心な、では無い。 勧誘なんてのもやらないし、やるべきだとも思わない。
私のブログを読んで頂いたらわかるように確かに運命論者であるから 起こる出来事に意味を持たせようとする傾向にあり そこに絶対的な「何かの存在を認めている」 それを便宜上「神」と呼ぶことに抵抗はないが 敬虔なキリスト教徒なのかどうかを問われたら自信なんてのはない。
日本人が無宗教になった、と言われ始めて久しい。
若い世代なら何教なんてのは1ミリの関心事にもならない、と思うし それがどうとも思わない。
日本の教育システムそのものが変わったから、ってのもあるだろうし それを語る人であり、身近に感じる場所もなくなった。そういうこと。
過ぎゆく時代の中で薄れていくもの、変化を余儀なくされていくものの一つに挙げられる、そんなもんだと思う。
厳しい戒律を求められるイスラム教でさへ時代の要請から変化、近代化の波には逆らえないのが今。日本に残っていくのか、は大きな疑問符がつくよね。
それを持って悪い、と一概に言えるものではないし 存在していないとも言えないと思う。
例えば 自分でどうしようも無い状況下では 神に祈りを捧げることは普通に行われている。あなたにも経験があるか、と思う。
そう考えるなら特別な何か、はしなくても神はもしかしたら逆に身近になっているのかも知れないな、と感じる時がある。形を変えて。
それは小さい時に既にミッキーのヌイグルミが傍に存在して抱きしめていたように 神もまた小さい時から傍に感じる存在になってきているのかも知れない。
元々 宗教というのは旧約聖書が事の発端であり その悟りを開いた方が自分の言葉で、自分の定めた戒律に於いて派生していったものである。
それが風土とも相まって独自な発展を遂げていく。
そう考えるなら 今風な宗教論 最早それは宗教とは呼べないかも知れないけど。そういうのもあり、であると私は思うし 現ローマ法王ポープ教皇にしても多岐に渡る改革に取り組んでいる。
それが時代の変遷であることに他ならない。
ただ時代は変わって科学は進歩しているし、人の意識も変わってきているが 人ができることなんてのは実はそんなに多くはなくて 何処かで足りない何かは出てくるし、最後にすがりつける何か、が必要な時はいつの時代にも、どんな場所にも間違いなくある。
だから必要なもの、であり続けるだろうし それの呼び名は変わることがあったとしてもその意識が無くなることはないんだろう。
その最後の祈り、誰かを想って祈る心 それこそが「救い(すくい)」になるんだと思うし それこそが神の御心(みこころ)、そんな気がする。
また ^^
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