コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

『わたしから貴方へ~楽になる生き方のヒント.1~』^^

息苦しくないですか。


最近 感染症の蔓延でより生き辛さを感じること 感じる瞬間、ありませんか。


この感染症が浮かび上がらせた『モノ』は 数知れずある、と思います。

ITの遅れ、であったり ○○警察という人が持つ裏側であったり。

その範囲は いろいろな場面で遭遇するし 散見されている。


もっと楽に生きる、ことはできないものか、そんなテーマを何回になるか、は私のことだからわからないし いつ次回があるかもわからないが挙げてみたいな、と思います。


もし良ければ お付き合いいただけたら ^^


楽に生きる、とはそもそも何をもって、が本質としてあるかと思います。


逆に言うなら 何をもってして生きづらくしているか、とも言えるはずだし その方向性で話したほうがわかりやすいと感じます。


これは私ができている、ではなくて そうありたい、と捉えて欲しいというのを先ずは前置きした上で読んでいただけたら・・・


知らず知らずのうちに誰かの目に映る自分、の中で生活をしていませんか。


人は時に 嫌われたくない、という自己防衛なのかどうかは定かではないにしても この 

「誰かにどう自分は映っているか?」


を意識してか 知らず知らずに、という無意識の中で行動しがちになる傾向があります。


勿論 私達は何らかの共同体の中に所属しているわけですから そこで波風を敢えて立てる意味も価値もない。

だから自然に自己をコントロールする、普通のこと。


だが そうした行動心理は 自然に「自分」という対象から「他人」が自分を『どう見ているか、どう思われているか』にこれも自然になる可能性は高くなる、を指している。


ここだと思います、あなたが感じる「生きづらさ」の一つは。 


大事なことは 「自分が誰かにどう思われるか」「どう思われたいか」 ではなくて

「相手が 誰かが あなたに対してどう感じるか」 だと私は思います。


受け身になる必要性は どこにもない、これを先ずわかること、そして知ることです。

受け身になるから その自分を演じる必要性が出てくる。

楽な生き方からは遠くなっていませんか。


ユダヤ教の教えの中に「嫌われる勇気」というのがあります。その一節に


10人の人がいたとしたら その中の一人はどんなことがあってもあなたを嫌う。

当然あなたも好きにはなれない。


二人は互いに全てを受け入れられる。


残りの七人はどちらでもない人だ。


というのがあります。

わたしが この一節を初めて見た時に感じたことですが 単純に なるほど、というのと あ~確かにそうかも、でした。


今 これを読んでもらってるあなたがどう感じられるかは私にはわからない。

が 実はそんなものなんだ、という割り切りがあって良いのかな、と思います。


誰かの目に映る自分を生きる人生、なんてのは書いてるだけで疲れそうだし 自分のための人生を生きる。


楽になりませんか ちょっと心が。


同じようにユダヤ教にある一節。

「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるのだろうか」 と。


わがままに生きる私。誰かに迷惑をかけないように、だけは守りながら・・・


また ^^