コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

25年を迎えて~私の阪神・淡路大震災~

あの日 1995年1月17日 5:46 それは起こった。


ゴゴゴ~ 寝ていた私が感じた唸り音。

普段眠りが深い私ですが なんだ? と思った瞬間に グゥワ~ と家が揺れた。

奥さんと子供部屋で慌てる子供達を抱き抱え 食卓の下に身を伏せた。


途端に グゥワ~ン グゥワ~ンと一気にそれは来た。


食器棚は倒れて 食器が飛び散る。

タンスも倒れた。

色んな音が 交錯していた。


短い時間だったはずだが 30分にも1時間にも感じた。


もう大丈夫なのか?


そう思っても 子供達は 私の手を握りしめて震えている。

動けないか、まだ。

と 思っていたら ガスの匂いが微かにしてきた。


動くべき、にその瞬間変わった。


近くにある公園に。子供達を抱え 奥さんの手をとって。


近所の方々も集まってきた。


一時間が立った頃 少し落ち着いた私達は家に帰ったが 部屋の余りの惨状に言葉を無くした。

どうなってるの、とひっくり返っているテレビをとりあえず台にあげて 点けてみた。


幸い壊れては いなかったので映像が出た。


そこには ・・・ 言葉が出ない、出せない光景が広がっていた。


時間の経過とともに 出てくる新たな衝撃的な映像の数々。

高速道路は倒れ ビルも倒れていた。


落ち着くに従って 親族は大丈夫なのか?私の、そして奥さんの に移っていく。

連絡は 取れない。回線はパンクしている。


とりあえず出来ることは テレビのニュースで情報を得ることだけだ。


私の住む地域で震度5強。


神戸地域が大打撃を受けているのもわかった。


先ず頭に浮かんだのが 神戸ポートアイランドに住んでいる叔母さん 大丈夫なんだろうか? と 私のスタッフの実家が神戸市近辺だったはず 大丈夫なのか? だった。


4日後私は スタッフと神戸に向かうことになる。

救援物資をトラックに積んで。

国道43号線 通い慣れた道だ、私にとって。


大阪から神戸に。

一つの橋を越える毎に 風景が変わっていく。

道が割けて 段差があり 迂回しないと 進めない。

迂回 狭い道に入ると家が倒壊していて 違う道を探す繰り返し。


ヘルメットを被っていないバイクがパトカーの前を通りすぎている。

何もないコンビニ。


僅か大阪から一時間の距離にあるのに、だ。


先ず 私のスタッフの実家の近くの避難所に向かった。

とある学校。

幸いにして スタッフの家族には逢えた。


喜びの瞬間。


が・・ 理科室にあった衝撃。

並べられたご遺体。毛布がかけられていた。


言葉を無くし 手を合わせるだけの私達。


そこから神戸ポートアイランドに向かう私達。

無事を祈る。


道路は液状化現象。埋め立て地特有のものだそうで 後から知った。

部屋はグチャグチャだったが 無事だった。


心身が消耗しているのは直ぐにわかったし 叔母は独り身だったので大阪まで連れて帰った。


こういう時には その人の本質が試される。


海外メディアから絶賛された日本人の資質 この状況の中でも助け合いをしている の裏には ブランドショップからの盗み、コンビニでの盗み等余り取り上げられていない悲しい事実が数多くあるのも知って欲しい。


25年を迎える今 神戸は復興しているようにも見える。


だが 何を持って復興したのか?

何を教訓にするのか? は 消えない記憶と共に 風化させてはならない、と思う。


何をすべきか、どう向き合うか、は 個人によって変わると思う。

なので 私が軽々しく書くことでも 書けることでも無い。


節目でもある今。

知っている人も知らない人も考えてみる契機になれば、と思う。


まだ続いたかも知れない人生をこの瞬間で終える、一瞬で変わる人生。


あるんじゃない、様々な教訓が。


亡くなられた6434人 行方不明3人。

御冥福をただ御祈りします。


黙祷。