コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

私の中の宗教論

昨日二つの出来事があった。


一つは ・・・ 部屋に住居人が一人増えた。

彼です。


名前は三太くん ん?違う? サンタくん こっちか ^^


これだけで私にしたら既にクリスマス気分・・ 安上がりじゃね?(笑)


いつまでだったかな サンタクロースさんは実在してると信じて枕元にデカイ靴下置いてたのは(笑)

天気が悪いとサンタクロースさん来られないかも、なんて子供心に心配してた頃が懐かしい。

小学生になったぐらいかな、友達に 「いないよ、サンタクロースさんなんて。」と言われて傷ついた、いや現実に戻された。


もう一つが ある人が発信したメッセージ。

宗教的なことだった。

このカテゴリーは中々に難しいと思う私です。


何ですが・・・


私なりにちょっと向き合ってみたいと思います。


迷える子羊が・・・なんていうつもりはサラサラありません。

それでは響かないよね。


先ず最初にわかって欲しいのが 人がたくさんいるように その捉え方は千差万別だ、ということだと思います。

何を意味するか、というと 完璧な答えはない、ということかな。


私の中で人が生きていく上で大事なことが四つあると思っています。


一つが 尊敬。

一つが 感謝。

一つが 愛。

一つが 優しさ。


これは法律ではない、ということが先ず一つ。

違反したとしても誰も罰しないでしょう。

例えば 両親の愛に対して 感謝がなかった、としても法には触れないということです。


概念的には その上に位置するものだと。


人が人と接する中でやってはいけないもの、やれば共同生活が保たれないもの、ことに対して 罰を与えるという行為で法律はあります。

が宗教というものは 人が人として生きることの指針になるべきものかと思います。


と言っても 私にしても盲目的にそれを信じるか、と言えば・・

それは ない、ということになります。


そこにはその人とその何か絶対的なもの(ある人は神と呼ぶだろうし、ある人は氏神様と呼ぶかもしれない。)との距離感だと思います。

盲目的に信じる、信じれる人もいるだろうし、私のように一歩下がったところから見ている、という人もいて当然だと思います。


他方 そう言いながらも 最後の最後に頼れる、頼りたい という存在が、最後に何かしらの納得が必要な時に それ は必要なんじゃないか? と思います。


所詮 人は弱い生き物です。


私の友人の子供が生まれて三ヶ月で亡くなりました。


現代の医学、医療技術を持ってしてもどうしようもない、という状況の中で何が出来るでしょうか。


『祈る』ことしかないんです。悲しいかな。


となると 誰に?が必要だと思いませんか?


そして ・・ その後 ありきたりな言葉でその喪失感を補うことは到底無理なことです。

その中で 出来ることは ・・ 行き場のない悲しみ、寂しさをせめて癒してくれる自分への言葉は?せめて納得させられる言葉は?


天国に召された。神様の元にいった。

辛かっただろう。でも 今は春の季節の中で幸せに暮らしているんじゃないかという『願い』、といった。


そういう『最後の拠り所』の存在が その絶対的なものが持つ力なんだろう、と思います。


これこそが神様の存在理由なんじゃないか、と思います。

そこに 出てくる『祈り』『願い』の相手をしてくれる、のが神様という存在なんじゃないか、なと私は思います。


今の私が書けることは この程度です。


先程も書きましたが 人の数ほど考え方、捉え方は変わります。

人生経験によっても 変わることもあるのが普通だと思います。

だから無理矢理信じる必要はありませんし、そこで迷う必要もないことだと思います。

何かの拍子に 出てくることもあるし、誰かとの出会いで見つけるのかも知れません。


それが 「悟り」なのかもしれませんね。


読み返してみたら ヤッパリ 「思います。」という表現が多いな、と。

抽象的な表現が多くなってわからない、というメッセージに対しての私のこの表現。


どうなのかな?


せめてヒントぐらいになってくれる、と良いなと思う。

一つの個人的な考え方、ぐらいに軽く捉えていただければ。


う~ん いつにも増して 訳のわからないアップデートなんじゃね(笑)

まぁこういうのも私だし。


ありきたりの一言を添えて God bless you (神のご加護を) ・・・


また^^