「声を挙げなきゃ 誰であれ そんな投稿」
神が もし存在するのであれば こんな事を願っていられるのだろうか
無神なるもの である私ですが その元になる神がいるとしたら こんな争いを起こす為に教えを説かなかったんじゃないかと思う
無宗教が大多数を占める今の日本人からすると そこまでやるのか と驚く他がないその教えに忠実な信徒は存在している。
インドネシアに駐在していた私は 初めてイスラム教に触れた。
ご存知の通り 豚肉は不浄の食べ物である。
粉末でさえ スープの出汁にさえ使えない。
料理をやってくれるメイドさんも雇っていたが 豚肉を触る時はゴム手袋をはめていた 笑
それぐらい徹底している方は徹底している。
プアサ(断食)の時は 日の出前に食事を済ませて 日没まで食事はおろか水さえ飲まない。
ただ 日本人である私にそれを強要する事はなかった。
早死にするよ とか、地獄に落ちるよ とは言われたが 笑
彼らにとって この世は辛いもの だからそこでは教義に従って生き尽くす、だけ。亡くなった時に約束されている極楽浄土行きを求めている。
そう教えられている。 それは もちろん否定するものでは無い。
私だって知らないから。 そこは想像の世界でしかない。
日本人からしたら かなり分かりずらい世界観。
人が共通認識 連帯を意識するのは 国、として で、民族 宗教 だと思う。だから 島国であり ほぼ単一民族である日本人には分かりずらい。
そこまでヘイトがあるのか 差別化されるのか が。
習慣が違うし 考え方が少しづつ違う。
だから 相容れない。あるものは 他者を排除しようとさえする。
ただ 神の教えの根本的なモノは 何宗であろうが 汝の隣人を愛せ な はず。
もう一つ言うなら 寛容の精神であり 赦せる精神にある な はずなんだが。
中々できないよね そこまでは。 そう思えるような事でさえ。
今を見る と、その括りの中での反目 差別 その大元になっているように見える。
その動機づけになっている。枠組みになっている。
違うよね そうじゃない。
その蛮行の理由づけに なっちゃいけないんじゃない?
そう感じる私は やっぱり日本人ならではの考え方、捉え方なんだろうか。
ただ守るべき 未来への希望である無垢な子供達が亡くなって良いはずは ない。
それを奪う権利は 誰にもない。
世界が止めにいかなきゃ。 それは人として であり 何人だろうが 何民族だろうが 何宗だろうが そんなのは関係ないとこで。
挙げなきゃ声を。名もないモノであったとしても。
神がもし?いるなら 見てんじぁない?
なんてね 笑
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