コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

選択肢 ^^

「記憶にございません!」


一昔前の政治家がやらかしちゃった時の台詞だ。


無いの?記憶に?


だったが 昨今はどうも変わってきたらしい。


今の流行り ? は 「捜査に支障がでる為にお答え出来ません。」と「時がきたら説明させて頂きます。」の 豪華二本立てだ。


真実を語るのに 支障が出ることは 何も無い。なら今しても後にしても同じだ。逆に後になった方が難しくないかい? と思うのは私だけ?


以前 この国の政治のパロディは必要無い、何故ならやってることがパロディだから。と書いた。

記憶にある方もいるだろう。


繰り返される茶番劇。変わるのはキャスト(配役)だけ。


若者層が 選挙に行かない、と言われて久しい。

当然だろう。

何を基準に選ぶの? が見えない。


それは どの世代でもある意味変わらない。


ゴタつく政府与党 自民党 のはずだが何故か上がる支持率?

押す理由第一は 他の政党よりましだから。

これって 凄い理由ですよね。

ましって(笑)


これが海外なら ショボイ? 野党の支持率も下がる。

何をやってるの、アンタとこも。の批判が上がるから。


それも無い。低め安定。


とりあえず色んな理由をつけて 引っ付いたり離れたり。

そりゃ怖れるに足らず、の域は出ないわな。が見えちゃう。


政府与党の失点を追求する、というのも必要なんだろう。

だけれども 期待したいのは そんな次元の話しではなくて 今の時代から未来に向けての 「明確なる選択肢」の確立だ。


激動する世界、社会 その中で 日本という国の未来図をどう描いていくか、のビジョンを見せて欲しいと思う。


そんな議論なら見るだろう。少なくとも私なら見る。見たいと思う。


最近のCMで好きなフレーズがある。

トヨタイムズ そうトヨタのCM。

社長が 未来の人の為にチョイスを! という言葉。


私達世代はもう今の時代の中で 中心的な役割は取れない。

ある意味 邪魔なのかも知れない。

感性にしても 考え方にしても 今の世代とは異なるものであるから。


その中でまだ何かの役割を持つ、というなら未来の人に伝えること、もう一つがチョイス(選択肢)を残すことでは無いか、と思う。


選択肢 という言葉。

字の如く 選択出来る環境を作る、ということである。

後は 未来に生きる人が決めていけばいい。

私達は 存在しないのだから。


さて ・・ この選択出来る対極に位置するもの 果たしてどこで いつ 出来るんだろう。

時間は余り残されていないような気がするのは 私だけ?


なんて事を ニュース見ながらふと考えた。


また^^

日曜夜の過ごし方? ^^

え~っと どうしたものか。


私の中で 前回投稿が思いもよらないアクセス数を集めていまして 戸惑うペリカン。いや 誰やねん(笑)

ここは素直に ありがとうございます。というところです。


前回記事に目を止められて 過去記事を確かめた?(笑)

見にきて頂いた方もかなりいたようですね。


果たして期待には答えられたのか、は多少気になるところではありますが。

まぁ私は所詮私でしかないから私の中から出てくるものを私なりの言葉で綴っていくしかない。


それだけ。


だからもっと良い格好で~ とか とりゃ~ っていう気負いなんてのもない。


このブログを始めた時から気持ちは変わらない。

何かを発信してみたい、な 私なりに。


そこだけ。


それは未だ出来ていると思っている。


多少なりともメッセージ性があるここなので 賛否両論はあって当然だとも思っています。

ただ いや、違うやろ、でも そうそう そやんな、でも構わないんです。

私のブログから何かを考えるキッカケになってくれれば。

当然肯定から入るか、否定から入るか、はあります。

が どちらにせよ、考えてるというのは事実。


そうなってるのは既に私の術中に、策にハマッているという、ここがポイント(笑)


お付き合いいただけたら幸いです。


日曜日の夜 ゆっくりしてる時間に まったりとした? 今回の投稿。

そろそろ 入るかな お風呂 柚子でも入れて。


あっ一つ良いです?

テレビ局の方 今春始まりのドラマなんだけど 刑事モノ、医療モノばっかりで 何か毎日 死んじゃう人がいて 病気のことばっかりで 気が滅入っちゃうんですが(笑)

視聴率が稼げるのはわかる。わかるんだけど 見てる方は疲れる、そして飽きるんじゃね。

なんて言ってみる。こんなとこで言ってみても伝わらないだろうけど。


また^^

25年を迎えて~私の阪神・淡路大震災~

あの日 1995年1月17日 5:46 それは起こった。


ゴゴゴ~ 寝ていた私が感じた唸り音。

普段眠りが深い私ですが なんだ? と思った瞬間に グゥワ~ と家が揺れた。

奥さんと子供部屋で慌てる子供達を抱き抱え 食卓の下に身を伏せた。


途端に グゥワ~ン グゥワ~ンと一気にそれは来た。


食器棚は倒れて 食器が飛び散る。

タンスも倒れた。

色んな音が 交錯していた。


短い時間だったはずだが 30分にも1時間にも感じた。


もう大丈夫なのか?


そう思っても 子供達は 私の手を握りしめて震えている。

動けないか、まだ。

と 思っていたら ガスの匂いが微かにしてきた。


動くべき、にその瞬間変わった。


近くにある公園に。子供達を抱え 奥さんの手をとって。


近所の方々も集まってきた。


一時間が立った頃 少し落ち着いた私達は家に帰ったが 部屋の余りの惨状に言葉を無くした。

どうなってるの、とひっくり返っているテレビをとりあえず台にあげて 点けてみた。


幸い壊れては いなかったので映像が出た。


そこには ・・・ 言葉が出ない、出せない光景が広がっていた。


時間の経過とともに 出てくる新たな衝撃的な映像の数々。

高速道路は倒れ ビルも倒れていた。


落ち着くに従って 親族は大丈夫なのか?私の、そして奥さんの に移っていく。

連絡は 取れない。回線はパンクしている。


とりあえず出来ることは テレビのニュースで情報を得ることだけだ。


私の住む地域で震度5強。


神戸地域が大打撃を受けているのもわかった。


先ず頭に浮かんだのが 神戸ポートアイランドに住んでいる叔母さん 大丈夫なんだろうか? と 私のスタッフの実家が神戸市近辺だったはず 大丈夫なのか? だった。


4日後私は スタッフと神戸に向かうことになる。

救援物資をトラックに積んで。

国道43号線 通い慣れた道だ、私にとって。


大阪から神戸に。

一つの橋を越える毎に 風景が変わっていく。

道が割けて 段差があり 迂回しないと 進めない。

迂回 狭い道に入ると家が倒壊していて 違う道を探す繰り返し。


ヘルメットを被っていないバイクがパトカーの前を通りすぎている。

何もないコンビニ。


僅か大阪から一時間の距離にあるのに、だ。


先ず 私のスタッフの実家の近くの避難所に向かった。

とある学校。

幸いにして スタッフの家族には逢えた。


喜びの瞬間。


が・・ 理科室にあった衝撃。

並べられたご遺体。毛布がかけられていた。


言葉を無くし 手を合わせるだけの私達。


そこから神戸ポートアイランドに向かう私達。

無事を祈る。


道路は液状化現象。埋め立て地特有のものだそうで 後から知った。

部屋はグチャグチャだったが 無事だった。


心身が消耗しているのは直ぐにわかったし 叔母は独り身だったので大阪まで連れて帰った。


こういう時には その人の本質が試される。


海外メディアから絶賛された日本人の資質 この状況の中でも助け合いをしている の裏には ブランドショップからの盗み、コンビニでの盗み等余り取り上げられていない悲しい事実が数多くあるのも知って欲しい。


25年を迎える今 神戸は復興しているようにも見える。


だが 何を持って復興したのか?

何を教訓にするのか? は 消えない記憶と共に 風化させてはならない、と思う。


何をすべきか、どう向き合うか、は 個人によって変わると思う。

なので 私が軽々しく書くことでも 書けることでも無い。


節目でもある今。

知っている人も知らない人も考えてみる契機になれば、と思う。


まだ続いたかも知れない人生をこの瞬間で終える、一瞬で変わる人生。


あるんじゃない、様々な教訓が。


亡くなられた6434人 行方不明3人。

御冥福をただ御祈りします。


黙祷。