コウスケ爺の四方山話し ちょいとホンネで語ってみるか...

ジャンルにとらわれない よもやま話しです。 お付き合いいただけましたらO_o

「であるべき、という呪縛からの解放」^^

最近ここがちょっと楽しくなっている。


何故か、っつうと最近色んな方と出会えたから。

正確に言うなら色んな方のブログに触れたから、かな。


実に多彩。


そこにある癒やしにキュンだし その言葉に刺激を受ける私。

いいな〜 がそこにある。


は、さておき SNS上には無数に存在する、時に意識はされない中で、こうあるべき、こうでなくっちゃ発信。


気にしなきゃなんちゃないんだが 実は結構意識の何処かに残っちゃう場合なんてのは往々にしてあるものだし それは知らず知らずの内に居着いちゃう、なんてこともある。


こうなるとちょっと厄介。

何故か、っていうなら 自分の中に「こうあるべき、こうでなくっちゃ、こうならなきゃ」的な何かが発動しちゃう。


自然生き方が窮屈になる。周りと違う自分にあれ? なんてなるともう「自分の存在地」なるものを見失う可能性も出てくる。

攻撃もしなくちゃならなくなる。


以前にも書いたが「べき」に支配されるとかなり生きにくくなる。


人に必要なのは「遊びの部分」である、と私は思っている。

その遊びが大きくなる程に 許容範囲が大きくなるんじゃない? が私の持論。誰も褒めてくれないけど(笑) まぁ期待もないが ^^


楽に生きてて良いのよ、って言うのは簡単だけど実はどうしたら楽に生きれるのか、なんてのは学校のカリキュラムには入ってない。

逆にこうしなくちゃ、あ〜しなくちゃの連続である。

ラジオ体操なんてのはその典型じゃない?


個人の特性なんてのは二の次である。


そりゃ出るわ 彼らが言う はみ出した人、は。


その延長線上にあるのが社会。

多様性を認める社会なんつってるけど その本質には迫れない。

腫れ物にどう触ったらいいか、を模索する社会じゃないの?と私は感じる。


何故か、っていうならこう書いてる自分が答えを持ち得ていないからに他ならないから、っていう何とも言えないフレーズ。

情けなさ満開、ってとこ。


さて ならば、を標榜中、思案中。

何処にヒントは落ちてるかな〜を検索中。


やるべきは、この呪縛からの解放、先ずはそこ。

アナタはアナタでいい、から始めよう。


ん? これも「べき」入ってない? という矛盾。

だから やっぱ難しいんだよな〜。


さて・・・ ^^