「〜冬来たりなば春遠からじ〜」
寒くない?
このところの陽気から、うって変わっての寒の戻り 小雨も相まって体感は再びの冬
そんな今日
今年の春こそは、なんていろいろ思ってたけど どうもかなり違う雰囲気になりそうな雲行き。
連日ニュースで伝えられるウクライナ報道、その映像はまさに戦争そのもの、侵攻なんて言葉の範疇で収まるものではない。
日本にとっても 原油高からの水光熱費上昇、ガソリン価格高騰、小麦粉価格上昇からの各種製品の値上りは必然になるんだろう。
崩れた世界秩序が及ぼすモノは、コロナ禍の終焉が見えない中で さらなる先行き不安、そして世界のパワーバランスの変化と言ったことに繋がっていくんだろう。
錯綜する様々な報道。そこには歴然たる事実とフェイク、そして何らかの思惑を持って発信されるモノ、が入り乱れている。
そして見る側は、自分が見たい情報を選び、それを信じたい想いから 信じる、に変わっていく。それもある意味普通。そこにある怖さ。
見えにくくなる本質、そして真実。
これ程解りやすい史実は、無いよね と思う。
どの情報も正しそう、であり そうなって欲しい という願望が見せる情勢に踊らされる感情。
試されているのは、情報の取捨選択。これはウクライナ情勢に限った話しではない。
それはこのネット社会においての普通。
様々な情報が 空間上に渦巻いている。それは玉石混交(ぎょくせきこんこう) 意味:良いものと悪いものが混じった様子。
選ぶべき目(視点)と感情に左右されない思考が求められる。
今を切り取るなら その先を想像する力、そしてその備えをどう取るか、どう出来るのか、を考えとかなきゃな、なんだろうと感じます。
何も出来ない、だからやらない の選択はある。が、来るであろう近未来において翻弄される‘だけ’の人 ならないだろうか?
常に 自分、としての立ち位置、ポリシー そんな平時には必要条件としては上がらなかったモノが、非常時には 必要条件になる‥
そんな気がします。
ウクライナの方々に、そして今 コロナ禍の中で藻掻いている方々に
「冬来たりなば春遠からじ」
そんな例えが季節としてではなく 訪れることを願ってやまない とするなら、何が出来るんだろう こんな自分にも、そこからじゃないかな? 始まるのも、そして 始められるのも
また ・・・
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