「もはや毎日が非日常に・・・」(TT)
「何十年に一回 ・・・」
大雨特別警報の一定義、である。
が もはや何十年に一回という定義はあてはまらないように思える。
西日本大豪雨災害さえまだ記憶には新しい。
地球温暖化の影響で海水温度が上がってきている今 台風でもない『梅雨末期の雨』は既に脅威の域に達しようとしているととらえるべきなんだろう、ということを感じます。
まさに大自然の脅威、人間の持つ能力を嘲笑うかのような異様な風景を私達に見せている。
人の歴史は 感染症との戦い、そして災害との戦いと共に作られてきた。
台風は自然災害の中で唯一予測できる災害と言われている。
人間の持つテクノロジーの進化によってその精度は上がっている。
予防、対策がとれるようになってきている。
がここ何年かは新たな形態になってきている。
私が思い描く「梅雨のイメージ」といえば シトシト降る長雨しかない。いや なかった。過去形になりつつある。
やだな~この時季は。でも農作物の育成にとっては大事だからな、なんて思っていた。
が 今は ここ何年かは間違いなく違うものに変異してきている。
シトシトという言葉はもうあてはまらない。
ゴー であり バシャッバシャッ、まるで長年滞在した亜熱帯地域のスコールのようでさえある。
亜熱帯地域のスコールであれば長くて二、三時間後にはカラッと止む、が日本等が位置する地域では長雨になる。
「線上降水帯」という言葉はもはや日常で使われるようになった。
この「線上降水帯」のやっかいさは 予測ができない、という点にある。
いつ、どこで、はある程度しか予測できない、今のテクノロジーを持ってしても。
いつ終わるのか、も読みきれない。
雲任せ、風任せ、そして地形任せ であるから精度の高い予測はできない。という気象庁の発表。
今すぐに治水事業ができるわけでもない。
今 できることは限られている。
周辺地域全体が身構えておくしかない。
予報が出る前の行動変容が求められている。
さらにやっかいなのが今はコロナ禍である。
避難所では勿論対策はとられている、が避難する側からすると躊躇する一要因となるだろうと感じます。
心に、頭に刷り込まれている『三密回避』
簡単には変わらない、変えれない。特に高齢者がいる家庭の避難に対しての心の葛藤は計り知れないものがあると思います。
さらに復興を考えた時にもその影響を受ける。
ボランティアの方々を受け入れたい、がそれがコロナ蔓延の引き金となる事態は避けたい。これも偽らざる心情であろう。
今年 2020年という年は厄災の年として私達の記憶に間違いなく残る年になると思います。
が そんな年を経験することによって「今までと違う人としての『何か』を知り また『何が、何を大事にする、したい』そんな人としての本質であり あり方といったものを試されているような気がしてなりません。
単に大変だった、ということで終わり、ではないような いや終わらせてはいけないよね、と私は思っています。
まだ終わってはいない九州豪雨。明日の昼頃まで?
命の選択 確かにコロナ禍でその脅威はありますが 先ずは目の前の命の危機に対しての選択をとっていただきたい、と切に願います。
くれぐれもお気をつけて、そして不幸にして亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
海上保安庁の救出ヘリの方々 そして災害地に赴かれている自衛隊の方々も大変だと思います。
できる限りの救える命を、そしてご自身の身体にも気をつけていただきたいと思います。
また Gods bless you ❨神の御加護を❩
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